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橋本努講義「経済思想」小レポート2005 no.4.

 

経済学科4年  17010024   佐藤 由佳

経済思想課題レポート(4月20日提出)

このレポートは、番外編扱い。

ここからは、あくまで私の主観で書きます。( )内がその理由です。

 

<文化的・精神的に優れていると思うもの>

     社交的なオタク(話題が多くて、普通の人よりも面白い。)

     大人の絵本(ずんと心の中に響いてきます。)

     糸井重里『言いまつがい』(あそこまで日本語を面白くできる人はすごい。)

     おちゃめな40代(一言で言うと、「粋」です。手本にしたい大人。)

     ガレのガラスの器(繊細でかつ、ガラスの特性を活かした細工。)

     たち吉の陶器(丈夫で、デザインがおしゃれ。)

     古い着物の柄(遊び心があって、明治以前のものが特にいい。)

     フォークソング(聴いていて情景が浮かび、わくわくドキドキする。)

     クラシックギター(あの音色が、柔らかくていい。)

     宮崎駿『パンダコパンダ〜雨降りサーカス』(ルパン3世よりもこっちのほうがいい。)

     美味しいコーヒーのある喫茶店(なんだか、優しい気分になれます。)

     利休の牛タンピロシキ(冷めても美味しいのが素晴らしい。)

     銭湯の背景画(よく見ると、なかなか上手でかっこいい。)

     風呂上りのフルーツ牛乳(お風呂あがりのビールを超える文化ではないか?)

     映画館の手描き看板(銭湯の背景画並みに風情がある。)

     和菓子(季節感があって、いい。特に練りきり、落雁)

     スープカレー(北14条のツルハの近くにある店が特においしい。)

     笑の大学(三谷幸喜の脚本の中で一番面白かった。)

     伊集院光のアップス〜深夜のバカ力(ラジオ番組。バカだけど面白い。)

     中沢新一『悪党的思考』(この中の「黄色い狐の王」という作品がいい。)

     立体シール(株式会社ミドリのシール。油紙にアートがある。)

     笑点(大喜利がいい。あの笑いのセンスには脱帽する。)

     時代劇(ドラマ。個人的には「御家人残九郎」が一番好き。

     みうらじゅんの「ゆるキャラ」(ご当地キャラクターの新境地を開く)

     タカラ「あおくび大根」(ゆるキャラ。マンドラゴラっぽい。)

     草薙剛の絵(ある意味画伯。「ぷっすま」のコーナーで有名になった。)

     「真夜中の弥二さん喜多さん」(映画。東海道中膝栗毛を現代風にアレンジ。)

     大人たばこ養成講座(日本たばこ協会の中吊り広告)

     五月女ケイコの絵(なんていうか、味があっていい。一度見たら忘れない。)

     清水義則のエッセイ(ユニークで読み手を飽きさせない。バカの壁なんか、目じゃない。)

     赤瀬川源平のエッセイ(清水義則と双璧をなす面白さ。)

     「ピタゴラスイッチ」(NHKの教育番組。佐藤雅彦のプロディースがいい。)

     小川洋子『博士の愛した数式』(これを読んで、数学がほんの少し好きになりました。)

     駄菓子や(昭和の懐かしい印象を受けるのがいい。)

     アートクレイシルバー(自分で好きな形にすぐできるところがいい。)

     チェコアニメ(完成度の高さ、可愛さからどんどん観たくなる。)

     「ほしのこえ」(自主制作アニメだが、その完成度は素晴らしい。)

     「カウボーイビバップ」(アニメだが、探偵物語ZEROを髣髴とさせるかっこよさ。)

     「MOON」(ゲーム。音楽が最高。色々なジャンルの音楽が聴ける。)

     佐藤雅彦『クリック』(だんご三兄弟の原案の載っている画集。)

     「ガイアの夜明け」(見せ方がいい。知らない世界を知れる。)

     王立宇宙博物館(食玩。スプートニク号の精密な模型にびっくり。)

     ルネ・カラヴァンの彫刻(芸術の森にある作品がかっこいい。)

     歌謡曲(思わずノリノリで聴いてしまう。)

     みんなの歌「月のワルツ」(諌山実生が歌っている曲。綺麗。)

     落語(あの喋りが、たまりません。でも9代正造は別。)

     真珠の耳飾の少女(フェルメールの作品。別名、青いターバンの女)

     赤瀬川源平『老人力』(タイトルの奇抜さに惹かれる。なかなか読み応えある作品。)

     ドビュッシー「月の光」(クラシックギターでの演奏のほうがいい。)

     夜桜(幻想的な美しさ。寒くなければずっと見ていたいものの一つ。)

 

<低俗ないし、通俗であると思うもの>

     空気が読めない人(一緒にいて非常に疲れるし、腹立ちます。)

     若手お笑い芸人(いいのは顔だけで面白くない人が多い。)

     アマチュアバンド(格好いいのは所詮見た目だけ。)

     ダウンタウンのコント(自分でネタをして、自分のネタでウケてるのが嫌だ。)

     「風雲たけし城」(馬鹿だなぁ、と思いながらもついつい観てしまう。)

     ヨン様ブーム(もういい加減うっとうしい。)

     血液型占い(当たらないと思いながらもついつい見てしまう。)

     『VOW』(ばかばかしいけど、見入ってしまう。)

     「えびボクサー」(イギリスの映画。見て失敗した。)

     「あいのり」(やらせっぽさ全開。でも見てしまう。)

     「学校へ行こう」(バカだが、ひとつひとつの企画は面白い。)

     1997〜の日本アニメ(声優の質、セル画の雑さからこっち。)

     藤岡弘の探検隊シリーズ(個人的には川口隊長のほうが好き。確信犯ぽいし。)

     「たけしの本当は怖い家庭の医学」(見ていて不安になってくる。怖い。)

     真夏の心霊番組(怖いと思いながらもついつい観てしまう。)

     ラーメン屋の行列(たいしたことないと思いながらも並んでしまう。)

     こぶ平の落語(名前ばかりでぜんぜん実力がない。)

     鉄拳のネタ本(しょうもないけど、ついつい笑ってしまう。)

     養老孟司『バカの壁』(あまりいい文章じゃない。清水義則のほうがよっぽどいい。)

     『声に出して読みたい日本語』(読む前に書く日本語を研究してください。)

     携帯電話の絵文字(なんかいやだ。表情がかわいくない。)

     遊園地のヒーローショー(見ていて、せつなくなってくる。)

     お土産の三角ペナント(あのダサさは誰にも真似できない。)

     江頭2:50(よく生き残ってこれたものだとある意味感心。)

     温泉の浴衣(あのセンスのなさには悲しくなります。)

     交通渋滞の時のクラクション(もう少し我慢はできないのかとイライラします。)

     ワイドショー(でもピーコのファッションチェックは別。)

     会社のグループディスカッション(あんなもので人間性を測られたくはない。)

     女性誌(いつも同じ話題でつまらない。)

     在宅坊主のお経(へたくそ。こんなのじゃ弔われなさそうだ。)

     男性用化粧品(なんだかなぁ、と思うときがある。)

     エントリーシートの締め切り期日(北海道、沖縄は優遇措置を取ってほしいと思う。)

     地方限定キティ(いくらなんでも笹かまぼこキティはないだろ…。)

     サッポロソフト(酒、あの味はいくらなんでもひどすぎる。)

     こたつ(好きだけど、通俗的かも。でも掘りごたつは別。)

     車内販売の冷凍みかん(ある意味風情だが、なんだか貧乏くさい。)

     学校の寮(申し訳ないけど、あの暴走にはついてゆけません。)

     ほや(どう料理してもあれは美味しくはならないと思う。)

     改造のできないデスクトップパソコン(気づいたときに泣けてきました。)

     休日は夜9時でダイヤの終わるバス(もっと本数増やせ、と切に思う。)

     耐震構造の家(名前と値段ばかりで、縦揺れ地震に弱い使えなさ。)

     学部PC室のプリンター(紙持参なところが腹立つ。法学部はタダなのに…。)

     スーパーの産地表示(どうやら結構ウソらしいので。)

     市販の温泉の素(幸せ気分になれるが、貧乏ちっくだ。)

     美少女フィギュア(それ買うお金があるなら、カッコよくなるのに使ってくれ。)

     抱き枕カバー(美少女プリントのは、見ていて悲しくなってくる。)

     眉毛の細い男子学生(安っぽい感じがして、一緒にいても楽しくなさそう。)

     Mr.マリックの超魔術(すごいけれど、インチキくささ満載。)

     ハウツー本(助かるけれど、堂々と見るのはなんだかカッコ悪い。)

 

 

経済思想 課題レポート

2005/04/20

経済学部経済学科4年       17010166            佐藤 光歩

 

<文化的、精神的にすぐれていると思うもの(あるいは見なされているもの)>

 

1.インターネットによって情報のやり取りができること

2.職人と呼ばれる人が持っている技術

3.全日本剣道連盟の定める日本剣道形

4.固定電話の無料通話が実現されるIP電話

5.パソコンを使って様々な文書が作成・保存できること

6.デジタルカメラの小型化・解像度の高画質化

7.携帯電話が多機能化していること

8.洗剤なしでも洗い物がきれいになる洗濯機

9.低反発まくらのように特殊な素材を使用した寝具

10.商品の流通網と価格にこだわったユニクロの経営システム

11.研究分野の融合により次々と新しい学問の分野が開拓されること

12.自分の体型に合わせて衣類が作れるオーダーメイドシステム

13.ゆで卵を上から落としても壊れない衝撃吸収素材

14.ペットボトルを製造することのできる機械

15.プラスチックの製品から衣類を作るリサイクル技術

16.コピーした情報を不正に抜き出すことを防止できるコピー機

17.印刷物をきれいに整頓することのできる機能を持つファイル

18.クラーク氏の言葉「Boys,Be Ambitious

19.衛星通信による地震観測・予測システム

20.高画質のハイビジョン画面搭載の薄型テレビ

21.作詞家が歌の中の限られた言葉で言葉以上の何かを表現すること

22.エジプトの遺跡。オベリスクという一枚岩でできた石柱

23.男性と女性、オスとメスという二つの性により新たな生命が誕生すること

24.音楽や文書などのファイルが保存できるCD-R

25.住居の構造を特殊にすることで地震の被害を軽減できること

26.地元で作った食品を地元で消費する「地産地消」の考え方

27.インターネットによる情報検索システム

28.一般的に「ブランド」と呼ばれる数々の商品

29.アップル社が開発し製品化したMP3プレーヤー「iPodShuffle

30.GPSによる位置情報の探知システム

31.プロ野球の打者と投手による心理戦

32.人間の頭では時間のかかる計算を瞬時にこなす計算機やスーパーコンピュータ

33.プロ選手の現状で満足しないあくなき向上心

34.インターネット上で日記をつけることのできる「ブログ」機能

35.「+」「−」「=」という算用記号を使わずに会計の計算ができる複式簿記

36.現代人の不足している栄養素を手軽に摂取できるサプリメント

37.鉛筆の書くという機能を補充可能な芯によって代用しているシャープペンシル

38.糸電話の原理を利用した、校内放送等の放送システム

39.イームズの、独特の雰囲気をかもし出す家具

40.記録する機能、整理する機能、保存する機能の三つの長所を持ったルーズリーフ

41.携帯電話の数字キーを五十音順に振り分け文字入力ができること

42.ゲームの製作に関わっているプロデューサー、デザイナー等の人々の仕事

43.様々な楽器による演奏によって音楽を聴く人を楽しませるオーケストラ

44.多人数で歌うことにより和音を作り出すコーラス

45.電車が定時刻通り運行するように管理されたシステム

46.携帯電話やカードを触れる、あるいはかざすだけでお金が支払えること

47.お札や硬貨が偽造されないよう製造する技術

48.日本のエネルギー技術および環境問題を解決するために持っている技術

49.進化、適応、形態発生の数理モデルを用いた人工生命の研究

50.相手の仕草や言動によって相手の心理を読み支配してしまうマインドコントロール

 

<低俗ないし通俗であると思うもの(あるいはみなされているもの)>

 

1.新作映画の記者会見あるいは試写会

2.ミッキーマウスをはじめとするディズニー映画

3.アイドル・グラビアアイドルの写真集

4.テーマパークのユニバーサルスタジオジャパン

5.ポケットモンスター、ドラえもんなどの人気アニメ

6.様々なメディアから取得できる懸賞情報

7.金券。商品券、クーポン券、割引券など

8.週刊現代、フライデー、週刊朝日などの週刊誌

9.生活や文化に関する情報が掲載されている情報誌

10.温泉やアウトドア等に代表される観光

11.星座占い、タロット恋愛相性占い、0学占い、風水、四柱推命、おみくじ、数秘術、今年の運勢等の占い

12.レストランや喫茶店、ファーストフード等の飲食店

13.マンガや企業のキャラクターのグッズ

14.PHSや携帯電話などの移動式モバイル

15.北海道新聞などの地方新聞や日本経済新聞などの経済新聞

16.スポーツに関するさまざまな情報を、テレビやラジオ、雑誌、ビデオをミックスして提供すること

17.都道府県別のテレビ番組表、デジタルBSCS放送の番組表

18.NHKによるニュース放送、番組放送

19.旧防災気象情報サービス。注意報、警報の発令状況、津波情報、台風情報、アメダス画像、気象衛星からの映像、季節予報等

20.電車の車内等で利用されている、見えるラジオ(FM文字多重放送)

21.AMラジオ、FMラジオによるラジオ番組

22.ニュース(国内ニュース、地域ニュース、海外ニュース、経済ニュース、スポーツニュース)

23.自作屋根裏部屋や日曜大工、ガーデニング、マウンテンバイク、フリーソフト、バードウォッチング等のDIY

24.スノボ、テニス、乗馬、ダイビング等のレジャースポーツ

25.様々な素材を利用して製作した雑貨

26.雑貨だけでなく、食品や衣類等を扱い安値で提供するディスカウントショップ

27.移動手段の一つとして今日の生活に不可欠な自転車

28.特定の技術を免許という形に残す免許制度

29.各企業が宣伝のために発行する広告

30.電車、飛行機、バス、フェリー等の交通機関

31.アルバイトや人材派遣等に代表される短期の雇用制度

32.TOPIX、日経平均株価、ジャスダック指数等の株価指数

33.言葉の意味を正確に把握する際に有用な各種の辞書や百科事典

34.国民の祝日に関する法律に基づく祝日および年中行事

35.管轄別の交番や駐在所、機動隊により国内の安全が守られていること

36.冠婚葬祭を始め、日常生活の様々な場面におけるマナー

37.インターネットに代表される情報通信

38.各アーティストの作成した音楽をCDによって配信すること

39.日本語だけではなく、全世界で公用語と言っても過言ではない英語を若いうちから習得させようとすること

40.働きたいという女性が増加したことによる少子化傾向

41.様々な財やサービスに課せられる税

42.日本は憲法第9条において戦争放棄を明言していること

43.健康のために栄養バランスのよい食事を摂取すること

44.病気を治療、あるいは軽減するための各種療法

45.110119117に代表される電話サービス(フリーダイヤル)

46.地球は青くて丸く、自転と公転を同時に行っているということ

47.日本国内のエネルギー資源の枯渇化

48.普段の生活の中で定着している様々な単位

49.重力、遠心力、抵抗力、引力等、普段の生活で体験している「力」

50.地域、言語、遺伝によって存在する多種多様な民族

 

 

経済思想 レポート

2005/06/06

経済学部経済学科4年       17010166            佐藤 光歩

 今回の講義では、私にとって「死の意味づけ」という部分と「社会層と信仰」という部分の二点が印象に残った。以下でこの2点について私が考えたことを述べていきたい。

 講義の中では、西洋近代資本主義においては死の意味として自己存在の消去という意味合いと自己存在の証明という意味合いの、相反する2つの意味があるということが理解できた。特に自己存在の証明という意味合いに関しては戦争による死の正当化であり、国家が宗教に代替して死の意味を与えるということであった。論戦の中では「戦争における死は、「何かのために」死ぬことである。ここでは宗教が取り組むべき普遍的な意味における「死の意味づけ」の問題はそもそも成立しない。死を意味づけるのは、政治権力である。」と述べられている。ここでは死は自己存在の消失という負の意味を与えるのではなく、国家が死に対して自己存在の証明という「正の意味」を与えるということを表している。

 現在日本は戦争を行うことについて憲法第9条によって放棄している。戦争のない社会で育ってきた私にとっては、国家から死に対して自己存在の証明という正の意味を与えられることは納得がいかないように感じる。ここで、死の意味とは逆の立場にある生の意味について考えてみたい。死の意味を考えるということは同時に生の意味を考えるということになる。国家から生の意味を与えられていると考えると、それは単に戦争に勝利するためであり、死によって戦争に貢献した証明がなされる。国家の側から人間に対するイメージは、人間は最終的に戦争に勝利するための捨て石のような存在である。当時の人々を思うと、ただ戦争のために生きているということはあまりにも空しく悲しいことと思う。しかし、自分自身が戦争真っ只中の時代に生きていて国家のある一人の兵だと想定した場合、国家から生と死に対する意味づけを与えられていることに関して納得しているかもしれない。戦争に貢献したことは国家にとって素晴らしいことであり、その一員として自分自身が名を残すことができるからだ。

 次に社会層と信仰という部分について触れたい。西洋近代資本主義は現世内禁欲を持った勤勉な人々が担っている。講義では「会社人間」という例があげられていた。それらの人々はもともとは恵まれない身分の社会層であり、彼らは苦難の不平等な配分を感じ、それを克服し、説明しようとするがために「使命」を持つ。その使命を業績によって証明しようとする上昇志向を持つことによって資本主義(プロテスタンティズム)が形成されていく。私は講義を聞いて、西洋近代資本主義に対し非常に堅苦しいイメージを持った。特に、日常生活全般の合理化・規律化をするという点がそう思わせる。もし私自身がこのような勤勉かつ禁欲な会社人間で、常に時間に縛られるような生活を送っていたら、確かに「こんな生活をしていて一体何の意味があるのか」という虚無感に陥ることと思う。西洋近代から19世紀後半にかけては禁欲精神、日常生活全般の合理化・規律化に対しての無意味化、戦後日本から現在にかけては同様の無意味化が起こった。個人的には社会の合理化に対して無意味化が起こることは当然の流れだと感じた。しかしプロテスタンティズムは経済的側面から見ると理論上はかなり正しい行動であることはたしかである。プロテスタンティズムの後に起こることになる無意味化に対して何か対応策はないのか、そのあたりはまだまだ考える余地がある。

 

経済思想 レポート

2005/07/06

経済学部経済学科4年       17010166            佐藤 光歩

 これまでの講義で各時代の思想家が生み出したさまざまな思想について学んできた。その中で私は今までに考えたことのないようなことを多く考えた。経済思想の講義を私の心の中で振り返りつつ、私が講義を通して感じたことを述べることで最終のレポートとしたいと思う。

 経済思想の講義を通して私が感じたことは大きく2つのことがある。一つは普段の日常生活でごく当たり前にしている行動についてより深い洞察を与えることができた、ということである。例を挙げると、私は大学に入学し大学で勉強をするということを当たり前に思っている。このことについてなぜと問われたとき、講義を受ける前の私であれば当たり前のことだからという一言で済ませていたであろう。しかし講義を受けその「当たり前」ということに対してもっと深く考えることができるようになった。つまりは当たり前になったのはなぜかを考える力が身についたということだ。例であればどのような社会の流れから今の社会になったのか、また教育の制度についてや日本のお国柄と呼ばれる思想についても考えてみる。それらを通して自分自身が今どのような考えのもとに大学に通い勉強をしているのかについて考える。この一連の思考を他の日常生活の行動についても考えていくと自分がいったいどのような人間なのか、現代社会はいったいどのような社会なのかについて把握することができる。以上のように「内省」する力が身についたのはこの講義で得たことである。

 二つ目には各時代の思想を比較対象にして現代社会を分析することは重要であるということである。各時代の思想を学ぶことによって、まずはその思想に対して自分自身が何かしらの批判なり共感などを得る。その後の時点で現代社会を見た場合、自分自身の考え方一つだけで捉えるだけでなく、各時代の思想をもとに現代社会を捉えるという新たな視点が生まれる。つまりは現代社会をより多面的に捉えることができる。このことは講義の中でもいくつかの場面で先生が説明してくださった。一つ目に挙げた内省する力だけでなく現代社会をより多面的に捉え分析していく力もこの講義で得ることができた大きな能力だと思っている。

 以上の能力は社会人になっても、もっと大きく捉えると人生を送る上で有用になると思う。講義が終わったからといってないがしろにするのではなく、今後も以上の能力を自分自身の中で磨いていきたいと強く思った。経済思想の講義で私自身精神的に成長できたことは私にとって非常に嬉しいことである。最後に半年間のご教授への感謝をここで表したいと思う。

 

 

マルクス=エンゲルス 『ドイツ・イデオロギー』

2005/05/16

17030102 今泉ゆかり

 マルクス主義の基本的な考えとして、上部構造と下部構造の分業による階級闘争の発生を防ぎ、自由意志的に労働のあり方を割り振ればよい、というものがあった。そうすれば、全人的な善能力の開花を可能にし、潜在能力を開花させることで、社会を良くすることができるらしい。しかし、果たしてそれは本当なのだろうか。

 私が考えてみたいのは、パート・アルバイト労働についてである。この労働は、基本的に時間給で、能力の差によって給料を下げられたり、あるいは上げられたりすることはない。ここには上部構造、下部構造が存在せず、よって専門人も存在しない。わかりやすい例として、私のアルバイト先を考えてみよう。私は板前料理屋で接客のアルバイト労働をしている。そこは自給700円でアルバイトを雇っている。昇給、減給は一切ない。私は入って約半年経つが、要領が悪く行動ものろのろしているために、やらなければならない仕事のうち、幾つかできない部分が出てくる。そしてその部分は、必然的に他のベテランアルバイトの方々にやってもらうことになる。私のほうはといえば、できない部分を自分でやる前にいつも人にやられてしまうわけであるから、いつまでたってもできないまま、ということになる。仕事をこなす能力も、なかなか上がらない。そんな私と他のベテランアルバイトのカタとの給料は、では異なるかというと、まったく同じの自給700円である。多くの仕事を効率よくこなしても、のろのろと非効率的にこなしても、給料は変わらない。ここには、マルクス主義の誤りを見出すことができそうである。

 アルバイト労働においては、分業による階級闘争は存在しない。構造の差異も生じない。しかし、だからといって全人的な全能力の開花が達成されるわけではない。むしろ、一定の給料が必ず与えられるという安心から、能力の開花以前の問題としてやる気の喪失という事態も生じかねない。能力には、専門性がつき物なのではないか。

 「器用貧乏」という言葉がある。この言葉の意味するところは、なまじ器用なために、あれこれと気が多く、また都合よく使われて大成しないこと、である。「全人的な潜在能力の開花」といえば聞こえがいいかもしれないが、すべての人の能力が開花するとは限らないし、まして専門的に物事に取り組むということは、ある能力を開花させるための前提であるように思われる。それをなくしてしまえば、残るものは中途半端に「ある程度」しか物事に接することができない人間だけである。そこから社会を良くすることはできない。歴史を見ても、社会を動かすための大きな力を持った人間は、いつだって専門に偏った者だったはずだ。

 

ウェーバー 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

2005/06/12

17030102 今泉ゆかり

 資本主義の精神とは、人間のマゾヒズム的性格を生み出すもととなったのではないか。人間は誰しも、マゾヒストなのではないか。これが、今回の講義と、最後の議論を聞いていて感じたことであった。資本主義的な精神を持つ人々は、生活の合理化を目指し、11秒を無駄にすることに対して徹底的に厳しく取り締まった。時間を大切にすることは最も人生を有効に使うことであり、寝る、だらだら過ごす、などといった下位の欲求に時間を費やすということは神に見放される行為であり、社会から追放されるべきものとみなされた。これは、非快楽主義といえる。だが、人々はそこにまた別の快楽を見出していたのではないだろうか。私の問いはここから始まった。これは、周囲の人々がよく口にする受験勉強時代の話からも想像することができる。みなが口をそろえて言うのは、「受験勉強はたしかに辛かったが、今よりも毎日が充実していた」ということである。辛いのにもかかわらず充実していたのはなぜか、それはどういうことなのか。思うに、その辛さにある種の快感が伴っていたからである。ほかのさまざまな楽しいことをあきらめて、受験勉強一筋でひたむきにがんばっている自分自身に酔いしれることができた。「今日も一日私はよくやった」と、自分で自分をほめ、(誰もほめてくれないので)テレビや雑誌、眠気といったそれこそ下位の欲求に打ち勝ったときのあのなんともいえない勝利感、充実感に浸れたのだ。「私は大学に合格できるのだろうか」という不安から生ずる内面的な孤独によって、人は受験勉強にいそしむ、という説明があったが、そこに私はある種の快楽が存在することを発見した。今日はこれこれをここまでやろう、英単語を100個覚えよう、などと徹底的に時間と自分を管理して、遊びたい、眠りたいという欲求を封じ込める。そんな欲求を感じた瞬間に、自分はだめだ、こんなことではいけないと反省する。しかし、この自己管理とスケジュールがうまく達成されたとき、なんともいえない快感が生まれる。それはまるで、自分をモーレツ主義に追い込み、精神と体力を痛めつけることによってエクスタシーを得ているようにも思われる。「自分はがんばっている」という認識は、苦痛を伴うが、その苦痛から快感を得る人間が多いのではないか。その証拠に、大学に合格して猛烈に勉強する必要がなくなると、大多数の人間は下位の欲求に流されて日々をすごしているが、そのことに対して大きな罪悪感を抱き、「以前のほうが充実していた」と口をそろえて言うのだ。私は、昼寝をしたり、だらだらとおしゃべりをしたりできる時間があるほうが、よっぽど充実していると感じてしまうのだが。しかし大多数の人間が、休むことを嫌って時間に終われることで満足し、充実感を得、生き生きしているという事実を見れば、人間は潜在的にマゾヒストなのではないかと思う。

 

生きるための貧乏

2005/07/06

17030102 今泉ゆかり

 71日の北海道新聞で「生きるための副業」という記事を読んだ。長引く不況で、ひとつの仕事だけでは生活ができず、複数の仕事をこなす人が増えているという。内閣府の外郭団体・家計経済研究所最新調査によれば、最高所得層と最低所得層の格差は、1994年の2.8倍から2002年度は3.07倍に拡大した。中位所得層と最低所得層の格差も広がっている上、各階層は固定化する傾向が強まっている。リストラの理不尽さを感じながら、食べていけない不安に追われて働く男性もいれば、老後に備えて、企業が禁止しているにもかかわらず副業に汗を流す女性もいる。

 新聞を読んだ後、何のために生きているのだろう、と考え込んでしまった。働き蜂の一生と同じなんじゃないかとすら思えてくる。授業で川上卓也氏の『貧乏真髄』を取り上げていたが、その中の一説が非常に大きな実感をともなって私の中に入り込んだ。

 

消費することは、自分が消費されてしまうことへと繋がります。

 

 私は週3回飲食店であるバイトをしている。そこでは、偉そうなおっさんや態度の横柄なおばさん、その他もろもろのお客に対してにこにこ顔で接し、へこへこと頭を下げて言いなりになっている。この時間、私は悪魔に魂を売っているのだと考えていた。お客に文句を言われるたび、にこにこ対応しながら心の中では「こんちきしょう」と感じていた。私は自分がものを消費するためにお金を稼がねばならない。そのためにアルバイトをするわけだが、その時間の自分は「消費されている」という表現がぴったりである。

 川上氏の「貧乏」は、消費社会で消費される自分を断ち切るものだ。自分が消費されないために、自分の消費も必要最低限にとどめる。必死に稼ぐ必要がないから、気楽であり、残った自由時間で創造性を高めることができる。

 今回の授業で、生きるために貧乏になるという選択があることに気づいた。所得の格差が広がる中で、年金額の削減や医療費負担の増加というニュースを聞くたび、年をとって生きていくことに何の意味があるのかわからなくなった。私は老人になったら自殺しようと考えていた。お金がなければ食べていけないし、病気になったら辛いだけだからだ。

 もし、みずから貧乏になることで幸せに生きていけるなら私は貧乏になりたい。

 

 

68日の講義を受けて

17020050 石井雅章

 『天皇陛下が恒例の田植え』。こんな記事を毎年新聞で見かける。春の恒例行事となっている、天皇陛下の皇居内の水田での田植えについての記事だ。

資本主義が成立する条件として、資本主義の精神が必要であると言われている。社会科学の巨人マックス・ウェーバーが言うところのこの資本主義の精神には、「労働(経営活動を含む)そのものを目的とし救済として尊重する精神」と「経営(労働力の使用、組織化を含む)が目的合理的になされる精神」の二つの側面がある。これら二つの精神が、技術進歩、資本蓄積、商業の発達などと結びつくと資本主義は発生し成立する。

では、日本においてはこの資本主義の精神が存在するのだろうか。労働それ自体が目的であるという考え方はなんとなく日本人の中にもある気がする。

天皇陛下は田植えをなされる。毎年欠かさずに田植えをなされる。今年も陛下自らが茶色のジャンパーにズボンと長靴姿で水田に入り、うるち米ニホンマサリの苗約40株を約10分かけて手で植えられた。「天皇陛下自らが水田に入り田植えをなされる」、これはどういうことか。要するに、日本人にとって働くことは当然のことだということだ。生まれついての勤勉。これが日本人。働くことそれ自体が、日本人にとっていわば宗教なわけである。だから日本人は資本主義の精神の一端は持っている。しかし、日本人にはもうひとつの「目的合理的な精神」が存在しない。なぜなら伝統主義の呪縛に雁字搦めにされているからだ。伝統主義の呪縛に雁字搦めにされていると目的合理的な経営というものができない。伝統主義とは、「伝統を尊重する主義」という意味ではない。どんな社会にも伝統はある。これらの伝統はそれぞれ尊重されているであろう。自発的に伝統を尊重する態度を伝統主義とは呼ばない。例えば、お役所の掟というものがある。これは、過去にずっと行われてきたというだけの理由で存在している。ただそれだけである。良い掟だから、などということはまったく関係ない。ただ今までその掟があったからという理由だけで存在している。こんな社会では目的合理的な精神など存在し得ないだろう。そしてその結果、資本主義は成立し得ない。

「日本は資本主義国ではない。社会主義国だ!」と主張する人がよくいる。その主張はある意味正しい。ウェーバーの意見を採用すれば、日本は資本主義国ではない。その理由は、日本には資本主義の精神がないからだ。天皇陛下が田植えをなされることからわかるとおり、日本人は生まれついての働き者である。でも、「役所の掟」が存在することからわかるように、伝統主義に呪縛されており目的合理的な判断ができないのである。

ウェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で、プロテスタントの労働への欲求がプロテスタンティズムに含まれる禁欲主義と強く結び付いており、それが資本主義の推進力となっていることも指摘している。これは日本ではどうか。正直よくわからない部分がある。先で日本人は働き者だと書いたのと矛盾してしまうかもしれないが、正直よくわからない。「労働への欲求」。たしかに日本人は働き者であるが、会社人間と呼ばれる人々が、あるいはフリーターの若者たちがそうした気持ちを持っているのか、疑問が残る部分である。「日本は資本主義国」ということが、ますます怪しくなってくる。

 

76日の講義を受けて

17020050 石井雅章

 これで最後のレポートということなので、まず今回の講義についての感想を書いた後、僕がこの経済思想の講義を通して思ったこと、考えたことを述べたいと思う。

 まず今回の講義についての感想であるが、「あしたのジョー」や「エヴァンゲリオン」など自分が好きな漫画、アニメについての話だったのでとても興味深く聞くことができた。自分で見ているときには考えもしなかったような視点からその内容を捉えることで、得るものも多かったように思える。それらが社会現象にまで発展した背景、製作者が視聴者に訴えようとしていたことなどは、自分で見ているときは全く気にしていなかったので、ただただうなずかされるばかりであった。中でもエヴァンゲリオンの最終話についての話は面白かった。言われて初めて気づいたが、確かにあのシンジのつぶやきは、最近の子どもたちを象徴しているように思える。「誰もぼくのことなんてわかってくれないんだ」「ぼくに価値が欲しいんだ」という台詞は少年犯罪の動機としてよく聞くことである。また「エヴァに乗るとほめてくれるんだ」という台詞は私立中学を目指す子どもたちのインタビューなどで聞くようなことと重なる。だが、それでは人間の生き方として寂しくないだろうか。自分というものを誰もわかってくれない、だから自分の存在の証明として犯罪をして注目してもらう、あるいはテストでよい点を取ると親が喜ぶから勉強を頑張る、それでは人生としてつまらないものになってしまうのではないかと思う。もっとも、そうした部分を象徴していたからこそ社会現象にまでなったのだろうが、この歳になって改めて内容を見直すことで考えさせられることが多かった。

 この内容に関連して、1つ考えたことがある。それは最近の、漫画「ワンピース」の流行である。社会現象とまではいかないが、小学生からサラリーマンまで非常に人気がある。僕自身も大好きなのだが、今回の講義を受けた後でその内容を改めて見直し、ここまで流行っている理由を自分なりに考えてみた。この漫画の内容として特筆すべきは、なんと言っても「人間味」であると思う。友情や愛情、思いやりや道理など、人間臭い部分がとても多い。そこに共感し、胸を打たれる読者が多いらしいが、それはなぜだろうか。僕は、今の日本を逆に象徴しているように思えてならない。それは、トム・クルーズ主演の映画「コラテラル」でも言われていたし、実際に東京の駅を歩いたりすればわかるが、現代の日本は、人間関係がとても軽薄になっていると思う。人間関係が軽薄というと語弊があるかもしれないので、もっと端的にいえば、「他人に関心がない」のである。そうした時代背景を受けて、このワンピースのような人間臭い、人間の「情」を強く表現した漫画が流行しているのではないだろうかと思う。

では最後に、経済思想の講義全体を通しての感想だが、僕にとってとても意義深い講義だったと思う。学んだ内容ももちろん意義があったが、それ以上に、ある事柄をいろいろな視点で捉えるという考え方を、自分の中に得ることができたことが大きな財産であると思う。この講義で得た知識、そして姿勢を、今後の自分の人生の中で活かせるよう努力していきたいと思う。

 

 

(経営学科・3年)17030151 上野麻子  05.6.15

マルクーゼ 「エロス的文明」

  人の愛の形は様々である。というわけで、人の歴史において様々な性的嗜好が存在する。中には、一般にはとても受け入れがたいものもある。カニバリズムというのは、人が人の肉を食べる、という食人嗜好のことを指す。私は、最近までこれを性的嗜好だととらえていた。というのは、カニバリズムは快楽殺人に付随して行われるケースが多いからである。しかし、よく調べてみると、性的嗜好というよりはどちらかというと食事的嗜好のようだ。カニバリズムというものが、私の中で強烈に印象づけられたのは、2001年に公開された映画「ハンニバル」を見たときである。あのシーンは、かなり衝撃的だった。気分も悪くなった。私は、グロテスクな表現が苦手というわけでもなかったが、そこにでてくるカニバリズムのシーンは自分的に強烈だった。そもそも、人が人の肉を食すだけでもすすんで行いたくないのに、それを好んでする人間がいるということが、とても興味深い。しかし、そもそも人が人の肉を食べるという行為は、民族によっては宗教儀礼として習慣だったらしい。なので、頭ごなしに野蛮な行為である、ともいえないだろう。彼らの習慣を野蛮であるとするならば、我々が牛や豚の肉を食すことも、野蛮な行為であるように思える。

私は幼少期、肉が食べられなかった時期があった。幼稚園入学よりも前くらいの頃だったと思う。たしか2週間ほどだっただろう。きっかけは今でも覚えているが、いつもよく食べていた玉子と、当時好物だった鶏肉のから揚げの「正体」を知ったときである。それまで、玉子が生まれる前のヒヨコだなんて知らなかった。非常にショックだった。幼い私は玉子の黄身の黄色が、ヒヨコの羽毛の黄色さだと感じてしまい、さらに怖くなった。おぞましい、と感じた(成長してみれば、うずらの卵の黄身も黄色いことから、これは間違いだとわかるのだが)。なぜ幼少期の私が、玉子と鶏のから揚げの「正体」を知るに至ったかというと、何の意図もなく、母親にきいてみたからである。幼児特有のなんにでも疑問を持つ時期、というものだったのだろう。それから半月程度、私はそれらが食べられなくなった。なので、前述した「肉が食べられなかった時期」は、正確には「玉子と鶏のから揚げが食べられなくなった時期」である。他の肉の正体はよくわかっていなかったので。

幼い私は、現実に打ちのめされた様な気分だった。当時見ていたテレビや絵本には、命は大事だと、それは動物も同じだと。動物は友達だと書かれていたのに。なんという矛盾か。好物だったものを一切口にできなくなってから、母親は不思議に思っていたようだが、母の言葉によって食べられなくなった事を言うのは、彼女を傷つけるような気がして言えなかった。しかも、私の周りには当時、菜食主義者などいなかったので、こんな事を気にするのは自分だけで、自分だけが変で、自分だけが変な子に思われるような気がした。しかし、母親のせっかく作ってくれた食事を残すのは、幼心に罪悪感があった。なので、この状況をなんとか打破しようと、母親にさりげなさを装って「ヒヨコさんや、にわとりさんを食べちゃって可哀想じゃないの?」という旨の質問をした。すると、「残さず食べれば可哀想じゃないんだよ。感謝してあげればいいの」という旨の答えが返ってきた。私はこの答えに自分の納得できる補足をつけてみた。上野家に玉子・鶏肉がきた時点で、彼らはすでに死んでいるので、それを粗末にせず、自分の栄養とし、自分が元気に生きることで、彼らの供養とする、と。あと、感謝して食べるようにする、と。この「自分ルール」をつくることによって、幼い私は見事状況を打破したのであった。肉食生活復帰初日は、やはり怖さを拭えなかったが、感謝の念を心の中で唱えることでやり過ごした。今考えると、こんなに全身全霊を込めて無理やり食べる必要もなかったかのように思うが、子供にとって好き嫌いがこれ以上増えるのは、非常に問題でもあったからだった。また、加えて言うならば、他の人がなんともなく思っていることならば、自分も乗り越えなければならない気がした。少なくとも、私の家族に菜食主義者はいなかった。もしいたならば、あんな無理をしないで、私は今頃立派な菜食主義者になれていたかもしれない。

私が「生き物だったという認識をした上で、肉を食べる」というハードルを乗り越えるために、成人した今でも記憶に残っているようなドラマがあったのだから、他の人もそういった想いがあっただろうと思い、友人たちに尋ねてみると、今のところ私と同じ思いをした者はいないようだ。皆がすんなり肉食を受け入れたことを、不思議に思う。感性は人それぞれということか。補足すると、今では私はなんら普通に肉を食すことができる。同じく、魚も。今でも、好物は鶏のから揚げやオムライスである。しかし、自分は今でもあの時定めた「自分ルール」に支えられている気がする。感謝するだけでは供養にならない、などと思ってしまえば、今まで犠牲にしてきた、おびただしい数の生物の命に押しつぶされてしまう気がするからだ。その後、菜食主義に転向したところで、今までの犠牲は変わらないのだから。

そういうわけもあって、私はアイヌの、特に狩りにおける思想を尊敬している。それに、「自分ルール」に似ている気がする。子供の時から、命は大事だと説くくせに実はあらゆる犠牲の上に成り立っているこの社会では、大なり小なり「自分ルール」のようなものが、自分の中になければ矛盾に押し潰される気がする。

 

目黒 加奈子  学籍番号・17030188  5月18日

 今回の授業で三回に渡るマルクスを主題とした講義は終了した訳だが、この三度に及ぶ授業の中で私が最も関心を寄せたのは、マルクスという人間自体の恋愛歴と、それを念頭に置いて考える時の、「経済学・哲学草案」の第三草案・私有財産と共産主義の中で彼が唱えた結婚についての思想である。

 授業にて学んだところからでは、マルクスという人間は、恋愛に対して非常に積極的であり、また情熱的であるように感じられる。マルクスは、後に婦人となるイェンニーにプロポーズをするにあたり、三冊もの詩集を自作して送ったとされている。当時の男女間の恋愛において、この「自作の詩集を送る」という行為が果たして一般的であるのか、はたまた特殊であるかどうかは分からないが、しかし今現在の感覚―――これは更に、あくまで私の年代においての感覚、という範囲に限定されているものではあるが―――からすれば、そうそうできるものではない。詩の出来の善し悪しはこの際置いておくにしろ、愛情を抱いた女性に対し自らの思いを具体化して、つまり、ともすれば後世にも残る「本」という物理的な形にして届けるということは、それだけの情熱と、加えて自らの思いに対しての絶対的な自信がなければ成せないだろう。この事柄から見るマルクスという人間像は、恋愛、もとい、女性との関係に対して、非常に情熱的であるように思われる。

 そのような事実を念頭において考えるとき、マルクスが第三草案中に述べた共産主義における結婚論の中の、「女性共有というこの思想こそ、まだまったく粗野で無思想なこの共産主義の告白された秘密だ、といえよう。」という言葉は、全く彼の行動に矛盾しないと言える。マルクスはこの「女性共有」の理論に対し、「共同社会との普遍的な売淫の関係」であり、「人間の人格性をいたるところで否定する」とも指摘している。つまりマルクスは、女性が共同体的な共通の財産であると考える共産主義のこの結婚論を、真っ向から非難しているのである。そしてマルクスのこの意見は、彼自身のイェンニーに対する態度からも、口先だけの道徳論ではないと感じさせるところがある。つまるところ、彼は男女の恋愛観に対しては非常にロマンティストであったと言えるだろう。

私個人は今まで、マルクスは時として非常に他に対して攻撃的であり、また時として非常に破天荒な理論を展開するところがあるように感じていたのだが、イェンニー婦人に対する態度から、また、この説における論旨から、その印象の中に彼の人の新たな一面を知ったように感じる。一人の女性に情熱的に愛を注ぐその姿が、偉大な経済学者であるマルクスを、どこか親しみやすいものに感じさせたのである。そして、そのような中で更に、ライン新聞主筆として活躍していた時期には、当時はまだ恋人という立場であったイェンニーを嫉妬させるほど異性からの憧れと好意とを一身に受けていたというエピソードがあるということもまた、マルクスの人間性におもしろみを加えているように私は感じるのである。

 

目黒 加奈子  学籍番号・17030188  6月13日

 労働と仕事と活動は、どれも人間の社会生活の基礎である。我々は「それ」を行うことによって賃金を得、その賃金によって社会の中で生活していく。よほどの特殊なケースでない限り、殆どの人にとってこれは日常生活を送る上での最低条件であると言える。労働、仕事、活動。しかしながら、これが人間の人生の置いての目標や目的になり得るかどうかと考えると、単純にうなずくことは難しいのではないだろうか。少なくとも、自分の人生が何のためにあるかと考えたときの、その答えにはなり得ないように思われる。そもそも、人間の生きる目的とは、いったい何なのだろうか。

 人間以外の生物―――つまり、他の生命の場合、生きることの第一の「目的」は、子孫を残しその生命を育てていくことにあると考えられている。当然、当人達(つまり、他の生物)に直接確認を取れるはずもないのでこれは推測にすぎない。だが、多くの場合においては、それこそが最も重要な目的と見なされていると言えるだろう。もちろん、死んでから子孫を作ることはできないので、「自分」が生きていることが大前提に置かれた状態での、ではあるが。

では、我々の場合はどうかと考えれば、やはり我々人間も「生物」の中の一種である以上、自分の遺伝子を伝えていくことは重要な目的であるように考えられる。しかし、それはあくまで、「生きる」上での目的であるようにも思われるのだ。人間には「生きる」ということ以外に、「人生」という言葉を与えられる範囲がある。「生きる」ことはどんな生命にも出来る。しかし「人生を送る」ことは、人間にしか出来ない。

 「効用の最大化」という言葉を講義中に聞いた。これは人生において、「『眠い』から授業に出ないで眠ることを優先する」、「『遊びたい』からバイトを休んで遊びに出かけることを選ぶ」など、つまり自分の欲を最優先において行動を決定することを言う。しかしながら、このように自分の欲望を第一に叶えていくことが、人生の「目的」になるかと問われれば、それもまた一概にそうだとは言い切れないように感じられる。欲望とは生きている限り尽きないものである。少なくとも、我々が生きていく上で生じる生理的な欲―――食欲であったり睡眠欲であったり―――は果てることのないものである。ゆえに、死を迎えるその時まで延々と消えることのないそんな欲望を満たすことが、人生の「目的」になり得るとは考え難い。考え難いがしかし、では他に、どのような物が「目的」になり得るのかと問われれば、これもまた返答に窮するし、そもそも簡単に答えを出すこと自体が憚られる問題でもある。最終的にその判断は全く個人の感覚に依るものになってしまうだろうし、実際の所、そうであるべきのようにも感じられるからだ。

 しかし私はここで、一つの、だがあくまで一応の結論として、人生の目的になり得るものに「何かを残す」ことを挙げたいと思う。子孫や遺伝子を、ということではない。それは動物にでも出来ることだ。そうではなく、文章や、音や、映像でも人の記憶でも良い。おそらくは文化や文明と呼ばれている、その人間独自の進化の過程に名前や結果を残すこと、またはそれ自体を作り上げること。それは人間として人生を送った証と誇りに十分になり得るのではないだろうかと、私は考える。

 

目黒 加奈子  学籍番号・17030188  6月27日

 生産と消費とは、言うまでもなく対局に位置している。単語の意味としても対義語となっているし、何よりもその行為事態が全くの正反対であることは、誰もが知っているだろう。とは言っても、この二つの言葉の意味と行為とは、互いに強く結びついていると言える。生産があるから消費があり、消費があるから生産がある。どちらか一方が欠けてしまっては、成り立つことはない。

 しかし、消費と生産の関係を考えるとき、どちらの行為が先に成されたか、言い換えれば、どちらの行為がよりこの「関係」を作り出す上で、そして我々が生きていく上で重要かを考えると、それはやはり「消費」であるように私は思う。現在の我々の「人間である」という概念や、個人の意識からなる他生物との差異の思想が(生物学的視点からというのではなく)いつの時代に確立されたのかは定かではないが、我々「人間」が現代まで変わることなく、そしてこれから先も半永久的に続けていく行為は、恐らく「消費」に他ならないだろう。何故ならば我々は、「何か」を食べることでエネルギーを摂取することを何よりの大前提として生存しているからだ。もちろんこれは他の生物にも言えることではあるが、だからこそ、我々が生きて行く上で何よりも重要な行為であるということは間違いない。今でこそ、農作物から直接的に「生存」していくには関わりのない娯楽品(たとえばカメラやゲームなどは、今や巨大な競争市場ではあるが、決して我々の生存していく為の要因として、直接に関係しているわけではないだろう)までを「生産」している我々ではあるが、遠く過去にさかのぼれば、我々が生きるということは、ただ「そこ」にあらかじめあったものを消費することで確立されていたからだ。そして、ただ消費するだけでは間に合わなくなったから、または、ただ消費するだけでは生活に不便が生じるようになったから、そこで初めて「生産」という行為が生まれるようになったのだろう。「消費」されるべき物資が絶えることなかったのならば、我々が生産的活動をする必要性はなかったはずなのだ。

 ジャン・ボードリヤールの著作・『消費社会の神話と構造』の中に、次のような一文がある。―――「消費社会が存在するためにはモノが必要である。もっと正確に言えば、モノの破壊が必要である。」―――この文は、生産の対局が破壊行為にあること、つまり消費とは生産と破壊の両者の中間項でしかないのだ、と述べている。しかしこの説も、言葉こそ違えど、やはり「生産」が副産物的位置からなっていることを示しているのではないか、と私は考える。確かに「消費」は、厳密な意味では両者の中間的行為でしかないかもしれないが、何かを食べる、何かを使用する、という消費の原点事態が、破壊行為そのものに属しているように思えるからだ。少なくとも消費行為は、生産行為よりも破壊という行動に近いと言えることは間違いないだろう。

 何かを創り上げることは、決して簡単なことではない。それどころか破壊や消費と比べれば、それはどんなにか難しいことであるだろう。加えてこの生産活動とは、恐らく他の生物にはない人間独自の行動の一つとも言える。しかしこの行動の原点にあるのは、消費と破壊という、何よりも原始的な行為であるということも、また疑いようのない事実であると私は思う。

 

 

 マルクス「経済学・哲学草稿」についての講義を受けて

 517日 経済学部三年 17030154 小栗孝之

 マルクスは結婚について、「女性共通というこの思想こそ、まだまったく粗野で無思想なこの共産主義の告発された秘密だ、といえよう。」と述べている。つまり結婚という制度をなくし、女性が共同的な共通の財産となるような「女性共通」を主張している。

 では結婚制度の廃止ないし女性共通は可能だろうか。結婚とは男女が夫婦関係を形成することであるが、結婚制度を廃止すれば夫婦関係という概念が消失するので夫婦関係から生じている、子という概念がなくなる。つまり、親子関係も消失する。そうした場合、子供は近所で共通に飼っている猫、近所猫みたいに近所で育てられる、また は一部のプロの手によって子供が育てられることになる。そうなればドメスティックバイオレンスなど諸問題も同時に消失するが家族や家庭という概念もともに消失する。したがって大人と子供が接する機会は今よりも減ることは間違いない。そんななかで今までよりもよい大人と子供の関係を築けるのであろうか。お互いに接する機会が減るので喧嘩することもなければ腹を割って話し合うこともなくなるだろう。そうすればより大人と子供の隔たりは広がっていくばかりであろう。

 また結婚制度を廃止し女性共通すれば、男性は多くの女性と共同生活をおくる者が増えるであろう。そうなれば一部の女性に対し複数の男性が共同生活をおくりたがることも当然でてくる。その男性たちの関係が良好なら問題はないだろうが、悪い場合は当然共同生活をおくりたがらないだろう。そうなれば女性はどちらか一方と共同生活をおくらねばならなくなる。つまり女性共通した場合、その女性をめぐる競争が起こる可能性は十分にある。

 しかしマルクスは競争市場社会を批判している。競争市場社会は儲かる人もいれば損するものがいるということで排他性があり、計画性もなく、私的所有欲からくる敵対性もある。それらが負の価値を生み、内的世界のない人間を増やす。したがってマルクスは資本主義を否定しているのであるが、彼が主張する結婚制度の廃止、女性共通には彼が否定する競争が起こる可能性がある。

 また、マルクスは「この疎外が自らを示すのは、一つの側面では諸々の欲求とそれらの手段の洗練化を、別の面では欲求の獣的な野蛮化、つまり欲求の完全な、粗野な、抽象的な単純化を生み出すことによってであり、あるいはむしろ、ただ自分自身を自分と反対の意味の中で再生させることによってである。」と述べている。つまり、欲求の洗練化を主張しているのであるが、女性共通の際、男性が女性の容姿について欲求の洗練化した場合、一部の女性に複数の男性が集中する可能性も出てくる。そうなれば上記のようにその女性を求めて競争が起こる可能性がでてくる。つまり、欲求の洗練化もマルクスが批判している競争につながるのである。

 

マルクーゼ「エロス的文明」についての講義を受けて

620日 17030154 小栗孝之

 過剰抑圧の時代と過少抑圧の時代は循環するのか、ということに関して、循環する可能性は十分にある。なぜなら、歴史上に限らず、経済的にも実際に相反する二つの事象が循環していることがある。たとえば、歴史では20世紀初頭のロシアにおいて第一次ロシア革命がおこり、自由主義者のウィッテはツァーリ(皇帝)にせまって十月宣言で国会開設を約束させ、民主化の風潮にあったが、革命運動の後ストルイピンが首相となり専制政治が行われた。いわゆる反動政治である。また、経済的には好況と不況が循環している。よって、過剰抑圧の時代と過少抑圧の時代は循環する可能性は十分にあるのではないだろうか。

 そのようにとらえると、日本は1950年代から1960年代にかけて都市化が進み、1970年代には管理社会のもとに高度経済成長を遂げてきたが、過剰抑圧の時代ともいえる。そして現在はより都市化が進み、交通が発達したおかげで比較的に自由な時代とも言えるが、それは同時に過少抑圧の時代でもある。その結果、小学生や中学生、高校生などの未成年の性も自由となり、援助交際や出会いサイトなどが社会に蔓延している。そしてそれらの相手は主にバブル期を支えた過剰抑圧の時代から解放された中高年である。つまり、現在は過少抑圧の社会によって過剰抑圧から解放された中高年と過少抑圧のもとで自由を謳歌している若者とが混在しているのである。中高年は援助交際、若者は婦女暴行などの性犯罪に手を染めている。性の自由化とともに現在は性犯罪が多発している。しかもそれらのほとんどは新聞に載ることがない。いちいち載せていられないほど多発しているからではないだろうか。

さらに学校の教諭で年間約250人が懲戒免職となっている。それらのほとんどが生徒に対する猥褻行為によるものである。今日、学校教育が問題となっているが教師がそのようであれば生徒もなおさらである。ゆとり教育などより教師の道徳的教育のほうが大切ではないだろうか。私の小学生時代も、4人の教師のうち暴力教師、ロリコン教師、左翼ヒステリック教師など3人も異常ともとれる行動をとる教師がいた。その人々には共通点がある。年齢である。だいたい現在では40代半ばから40代後半である。つまり、1970年代という過剰抑圧の時代に青春をおくっていた人々である。現在では1970年代ほどの抑圧はない。彼らにとっては抑圧から解放されたこととなるだろう。

極度の抑圧から解放された彼らは非道徳的な行為に及んでいるのであるが、フロイトのよれば超自我が低次の自我に対して監視人,裁判官,指導者のような役割を果たす,いわば良心のようなものであるが,すぐれて無意識的である点で通常の良心と異なる。超自我は両親の禁止や命令を内在化したものであるが,現実の両親像ではなく,両親の超自我を内在化したもので,それを中心としてあとから教師などを介してさまざまな社会的規範がつけ加わる。このようにして超自我は世代から世代へと受け継がれ,社会の伝統的な規範や価値を伝えてゆくとされる。

よって、社会的、道徳的規範をもたない教師が担当だった生徒の超自我には社会的、道徳的規範は加わらないのである。したがって非道徳的な行為を抑制できなくなってしまうため援助交際などにはしってしまうのではないだろうか。

 

 

共産主義のなかの自治について

3年 17030072 高橋亜弓

提出日 6月6日

労働論のなかで、マルクスは「今日の社会では、労働手段は土地所有者と資本家階級の独占物である」とし、その両方とも批判するという立場をとっている。当時、土地貴族と資本家階級が派閥として争っているなか、そのどちらとも労働者の敵だというのである。マルクスは労働者のみで社会を構成したいと考えていた。労働のみが価値を生むので、労働に基づかない地代はみとめられず、地代がない社会を実現することを主張していた。土地自体からは自然に価値が生まれないが、それを使って地代を徴収することで価値が生まれるので、その行為は労働とはいえないのだろうか。しかし、それ以前に共産主義では、土地の私有をまず廃止するのでそうなれば地代徴収権は誰のものでもなくなるので、地代という概念そのものがなくなると思われる。

共産主義の自治で重要になってくるのは労働証明書である。はじめは働いた時間に応じて給付がなされる。時間というものさしで形式的、一面的な平等をはかるのである。この次の段階として各労働者は能力に応じて働き、必要に応じて給付されるという形態にシフトする。労働を実質的にはかるコストや、どのように労働をはかるのかは問題が残るが、それが解決できれば、有効な手段であると思われる。この労働証明書は、資本主義でいう貨幣のように市場で流通して人々の生活のよりどころとなる。単に、所得証明の役割だけでなく、市場で自由に売買されたりするようになるかもしれない。そうなると労働証明書が証明する労働の価値は確固としたものでなければならない。当然のことだが労働証明書に記載される内容は人や能力や時期によって異なるので、個々の労働証明書は等価値とはいえず、市場で交換・売買するのに不都合が生じると思われる。日々変動する為替レートのようなものが個人単位の日常で継続的、大量的に取引されるのは煩雑である。また、労働証明書は理想的には能力に応じて支払われるべきものなので、貨幣が示す価値よりはるかに柔軟な価値である。不正に改ざんされないような対策が必要である。

マルクスは資本の経済学に対する労働の経済学として、生産協同組合を主張した。資本家を追放して労働者に工場を民主的に管理してもらうのが目的である。これをフェアに実行するために国家による補助が必要であるが、国家は下位機関に位置づけられるとする。効率的な生産のために、労働者階級のなかでも分業が生じ、指導的な人間が現れるだろう。仮に、労働者階級のなかで一部の上層部が生産を決定・管理するようになれば、自治といえども、彼らの決定の枠組みのなかで、という制約がつくがそれは容認しなければならないのであろうか。また、国家は誰が構成するのか、と疑問に思った。おそらく国民は全員、生産共同組合に属して労働者として、自治をつくる。この自治はあくまで労働の生産に限り、生産の管理のみを行うとすれば、政治的な自治は外注しなければならない。それの担い手が国家であり、労働者階級が政治権力を獲得すれば、政策的な仕事をするので、結局、一国はすべて労働者のものとなる。生産協同組合のもとで、国家は傀儡と化すのでわざわざ国家を存続させる必要はないと思われる。

 

プロテスタンティズムの倫理について

3年 17030072 高橋亜弓

提出日 6月13日

16世紀はじめ、プロテスタンティズムという新教徒がカトリック教会の改革を主張する。これは職業に従い勤労に励むのを勧めるので、近代資本主義の基盤となる考えである。その後、19世紀から20世紀にかけて富が蓄積され、人々は相当程度豊かな生活を手に入れることになった。プロテスタント以前、カトリックの規律はゆるやかなものであったが、人々はあえて生活全般を規律する厳しい宗教改革を受け入れることになった。ウェーバー説によれば、人生とは貨幣効率をあげることであり上位の欲求を満たすためのもので、快楽主義とは対立するものである。賃金を稼いだらそれは経済を発展させるために投資に回されるので、禁欲にならざるをえない。ここではどれだけ楽に生きるのかではなくどうやって自分の技能を身につけ天職を得るのかが重要な社会である。修道院に行かずとも、世俗のなかで神に近づく方法として勤労は社会に浸透していった。労働を天職とする心理的起動力がここで働く。プロテスタンティズムにおいてすべての労働は等価値であり世俗のなかで天職をまっとうすること自体が優れているとしたが、これに対するのがカルヴィニズムである。自分の運命は昔から因果によって決められているという内面的孤独化を主張し、世の中では国家の発展以外は無意味なものとした。万人が勤労に励めば救われるという保証がなくなったが、しかしそれにも関わらず人々は努力をやめなかった。プロテスタントからカルヴァンへ移行したものの人々は勤労をやめず、変化したのは何のために働くかという依存対象だった。神のためではなく国家のために、と移行している。いつの時代も労働自体が目的となることはなく、労働の背後にある救いを求めるがために人々は勤労になった。どんな人も労働がすばらしい生きがいである、優れたものである、と思うのならばプロテスタントが出現しなくても経済はひとりでに発展していくはずだ。そして労働の意味をつきつめて問うこともないだろう。プロテスタントの禁欲主義の考えでは、私自身の考えに一致する部分もあった。宗教とは少し違う部分もあるかもしれないが、禁欲になるということには、道徳的、倫理的になるという意味合いも含むはずである。そのような上昇志向をもつことは善であると思うが、上昇志向が強い人間ほどもともとの内面が乏しいのではないかと思われる。自分に何かしらが欠如しているからよけいに努力してしまうからである。また、勤労になるにはいろいろなものを犠牲にしなくてはならない。受験のために欲望を排除して自らを規律化しようとするのがそうだ。つくづく禁欲とは過酷で孤独なものであると思う。近代人は宗教の魔術から脱却したところにいる。「精神なき専門人、心情のない享楽人」には宗教も国家も心のよりどころにはならない。自分で生きるための価値を見つけなければならない。過去にはそれが心理的起動力であり、内面的孤独化であった。現代人には宗教的要素が少ない分、不安定である。絶望的な状態にあるのではないかと思われる。しかし、思えば日常の中のささいな幸福が自分の生きる価値になっていたりする。とりあえずはそれで十分だと思う。それが失われないように努力していこうと思う。

 

環境と経済について

3年 17030072 高橋亜弓

提出日 7月4日

経済学は、自然を考えてこなかった。人々は経済発展のために自然をさほど配慮せず、開発をすすめ、自然を破壊してきた。今、豊さの指標としてGPIというものがあるが、これは経済的な消費がされればプラスの方向へ、自然の支配がされればマイナスの方向へ働くものである。自然破壊の度合いが消費より下回ったらプラスになるのだが、人間の生産・消費が物的資源に依存しているかぎりそれは不可能である。そこで、環境に優しい消費として情報消費が提案される。現在、情報消費が増大していて、この傾向は将来的にますます強くなると思われる。情報消費は、資源を消費せずとも人間を満足させることができ、理想的な消費スタイルだ。しかし、その扱いには物的消費より慎重になる必要がある。情報の氾濫は人々を混乱させる。大量にある情報のなか、全てを把握するのは困難であるので、その中から自分が必要なものを選ぶという意思決定が重要になる。また、情報という資源は統制しにくいという性質がある。最近でも、頻繁に情報流出が起こっていて、それは一度起こっただけで大量の人々に、それも国境さえ越えて被害を与えるものである。情報的で、かつスローな経済生活が人間にとって豊かなものだと思う。しかし、情報は物的なものとちがいその生産・消費をコントロールしづらい。この先、現在よりも世の中の情報化が加速していくなかである程度学習すれば、自由に扱えるようになるかもしれない。

 文明化が進むほどメランコリーが進むということは、感覚的に理解できる。生活が快適になるほど生きているという感覚を忘れて俗世間から遠ざかろうとする。ヘンリー・ソロンの『ウォールデン・森の生活』を授業で紹介されたが、個人的にはこの生活に憧れを感じる。これと似たようなことをいつか実行したいと考えているほどである。程度の差こそあれ、人々は自然回帰の欲求をもっている。授業の中でも森の生活を支持する声がいくつか聞かれた。快適な生活のために、自然から搾取し、破壊しつくしてしまった後に自然を頼ろうとする姿は傲慢に思わないでもない。森の生活に関連したものでフリーターの生活がある。フリーターの生活というのも俗世間や快適さと対立的なものであるので、その点で共通している。思うに、フリーターの生活とは、常人の生活より環境に優しいものである。フリーター、そしてホームレスの人たちは、経済的な制約があるので過剰に消費することができない。与えられたもののなかで経済生活を送るだろう。また彼らは職業に就かないので生産行為からも遠い存在である。そして、それは経済的、社会的発展を志向する世間に反することであり、若者のフリーター化は社会にとって大いなる損失である。フリーターは社会的効用など考えず、差し当たっての自分の生活ばかり考える。それが精一杯であり、それに満足している。社会をより善くしようと意欲的なのは、社会的階級の上層部にいる人たちである。それは、社会が善くなれば、個人ひいては自分の生活自体もより豊かになると考えているからである。思うに、彼らは同じである。しかし、経済的発展が全ての現代から見れば、フリーターなど言語道断の存在である。もっと世の中がスローな方向を目指したら彼らの存在は今より評価されるのではないだろうか。